一世阮國が西原間切我謝地頭(にしはらまぎりがじゃじとう)となり我謝親雲上(がじゃぺーちん)と称す。
我謝姓は直系の二世の士元(しげん)、三世起鳳(きほう)と受け継がれたが、直系の本家系統は四世長男廷嘉(ていか)が
真玉橋姓となり、以後も変化。現在の我謝姓は四世次男の廷章(ていしょう)の系統が踏襲。

三世次男起龍(きりゅう)天久親雲上の四男維新(いしん)が宜保(豊見城間切)
の地頭となり、宜保姓を名乗る。宜保姓は維新の系統。

久米村総役(総理唐営司)
紫金大夫 官生科挙
阮維新(阮天受)
宜保親方御使用物
1722年卆

直系四世廷嘉(ていか)真玉橋親雲上の三男瓉(さん)が
恩納間切山田地頭(おんなまぎりやまだじとう)となり、山田姓を称す。
山田姓は瓉の子孫の系統。

分家四世の維徳(いとく)天久親雲上の次男為模が
真栄城(北谷間切(ちゃたんま)ぎり)の名島)親雲上となっており、十九世紀中頃を反映する
「氏集」にも真栄城とあるので、その子孫が称していると思われる。
だが現在、阮氏では真栄城姓を名乗って居る末裔は居ない。

分家五世玠(かい)真玉橋里之子親雲上の四男超叙(ちょうじょ)が
摩文仁間切小渡(まぶにまぎりおど)の地頭になったことにより、その直系子孫が称している。

分家五世為標(いひょう)與古田親方の四男民表(みんひょう)が
真壁間切名城(まかべまぎりなしろ)の地頭になったとあり、子の七世功発(こうはつ)も父の家統を
嗣(つ)いで真壁間切名城地頭とある(「系図與古田一統/阮氏三世起龍子孫」参照)。
このことから子孫は名城姓を称しているはずであるが、現在阮氏では確認できないという。

分家五世為標(いひょう)が大里間切與古田の地頭となったことから、子や孫の多くの分家で
與古田姓を称している。まず子の代で次男民安(みんあん)、三男民儀(みんぎ)、
六男民伯(みんはく)の各系統、さらに孫の代で次男の世晃(せいこう)、三男の世昌(せいしょう)の系統、
曾孫(ひまご)次男の八世功烈(こうれつ)の系統の六系統に及んでいる。各系から更なる分家が生み出されており、
阮氏中、最も多くの人々に用いられている。なお與古田姓の基となった分家直系の為標の系統は
曾孫長男の八世功熈(こうき)の代に許田(きょだ)姓に変わっている。

真玉橋

ぐし宮城

分家六世超陞(ちょうしょう)真玉橋里之子親雲上を系祖とする系統が、
七世以降に真栄田(恩納間切(おんなまぎり))姓に変わっている。

分家五世玠(かい)真玉橋里之子親雲上の系統が、吉元姓に変わっている。
吉元家は、真玉橋、真栄田、小渡の中元筋(なかむーとすじ)にあたる。

分家三世起龍(きりゅう)天久親雲上の直系の八世功熈(こうき)が、
名護間切許田地頭(なごまぎりきょだじとう)となり、以後許田姓を称した。同系統は、
当初の天久姓(三、四姓)から與古田姓(五~七世)を経て、最後に許田姓(八世)となっているが、
前述の通り與古田姓の代に数多くの分家を生んでいる

神村

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