• 阮籍(げんせき)210年生~263年没 2010年は生誕千八百年年になる。
  • 阮氏家譜(神村親方)の序に彼が阮氏の祖と記されている。
    「水(川)を観(しらべみ)る者は、必ずその源を窮(きわ)め、木を樹る者は、必ずその本(根)を探る。源と本と之れ立たざれば、
    譜、なにをもって作らんや。阮氏の先(祖)は、西晋(せいしん)(265~316)の望族(ぼうぞく)にして、
    南咸(なんかん)・北籍尤(ほくせきもっと)も(名)著れ、大・小阮(阮籍(げんせき)を大阮(だいげん)、
    阮咸(げんかん)を小阮(しょうげん)という)と称(しょう)せられると云(い)う。」
  • 彼は中国、三国志(さんごくし)で有名な魏(ぎ)(220~265)の末期の文人で、字(あざな)は嗣宗(しそう)、
    陳留郡尉氏(ちんりゅうぐんいし)(河南省(かなんしょう))の人。竹林(ちくりん)の七賢(しちけん)
    (阮籍、嵆康(けいこう)、山濤(さんとう)、劉伶(りゅうれい)、阮咸(げんかん・阮籍の甥)、向秀(しょうしゅう)、
    王戎(おうじゅう)の七人で、俗世から超越した談論を行う清談をした。その行動は当時の知識人の精一杯の
    命がけの批判表明と賞される)の指導的人物として知られる。子は阮渾(こん)(兄は阮熙(き))、阮熙の子が阮咸。
  • 父の阮瑀(げんう)は、中国文学史に大きな影響を与えた建安年間(けんあんねんかん)の文学集団である
    建安七子(孔融(こうゆう)、王粲(おうさん)、劉楨(りゅうてい)、陳琳(ちんりん)、阮瑀、徐幹(じょかん)、
    応瑒(おうとう)の中の一人で、曹操(そうそう)、及びその子の曹丕(そうひ)(魏の初代皇帝)、
    曹植(そうしょく)(曹丕の弟)に高い位で仕えた。212年没。
  • 阮籍の容貌は端正で上品、士気旺盛、博学で、詩歌を吟じ、琴に長じている。
    特に老荘思想を好む。「大人(だいじん)先生伝」や、「達荘論(たつそうろん)」はその思想的著作であり、
    詩では「詠懐詩(えいかいし)」82首が有名で五言詩連作(ごごんしれんさく)の先駆けである。
    そのような彼を罪に問い足を引っ張る司馬家(しばけ)の御用学者や、権力をめぐる偽善(ぎぜん)と詐術(さじゅつ)が
    横行する魏の末期の世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み、清談を行った。
    また礼教(れいきょう)を無視した行動をしたと言われている、
    つまり、世俗の奉ずる常識的な社会規律を勇敢に無視した。嫌いな人が尋ねてくると白眼(はくがん)で応対し、
    気に入った人が尋ねると青眼(せいがん)で応対した。それから転じて、現在では冷淡な、または憎しみのこもった目つきで
    見ることを「白い目で見る・白眼視(はくがんし)」という。
    一方で彼は時事を評論せず、人の過ちを決して口にしない、極めて慎重な人物であった。
  • 魏末期社会は、のちに西晋(せいしん)の王室を開く司馬氏(しばし)の勢力が次第に拡大し、
    王朝交代(おうちょうこうたい)に伴う政治的危機が噴出していたが、司馬氏は阮籍に対して好意的であった。
    司馬昭(しばしょう)は子の司馬炎(しばえん・西晋の初代皇帝)の為に阮籍の娘を嫁にもらおうと縁談を求めたが、
    それを察した阮籍が六十日間泥酔(でいすい)していたため、そのことを切り出す機会を逸したという。
    これは罪にあたると訴えられたが、皆は泥酔によるもので罪を逃れるとした。
  • 彼は、常識を超えた大酒飲みであった。彼は晩年、官職を勧められても辞退を繰り返していたが、
    歩兵校尉(ほへいこうい)という官には希望してなった。
    その役所の倉庫には数百石の美酒が蓄えられていることを耳にしたからだという。
    そこで毎日、蔵の酒をあびるほど飲んだのは言うまでもない。また、山東(さんどう)の東平(とうへい)の知事(ちじ)に
    就任した時のやり方も、はなはだ、独自であった。
    これもその土地の風土の楽しさを聞いて、みずから知事をかってでたのであるが、ロバにまたがって任地に着くと、
    役所の壁をすっかり取り払わせ、執務(しつむ)の様子を人民に公開した。
    文字通りガラス張りの政治、またはそれ以上だった。しかも「政令(せいれい)は静寧(せいねい)」であったという。
    54歳没。
  • 参考文献   阮籍の「永懐詩」について(吉川孝次郎著)岩波書店
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